もうかれこれ15〜16年にもなるかと思いますが、当社では林業の担い手(行政職員から民間の林業事業体まで)や、環境NPO(とりわけ森林保全団体)等の方々を対象に、組織やチームづくりにおけるコミュニケーションの重要性についての講義や演習等を行ってきました。その際、研修生や関係者から必ずと言っていいほど「どうやったらコミュニケーションが図れるようになりますか?」という質問をいただきます。“どうやったら”つまりは“HOW”の部分です。おそらく皆さん、組織やチームの中で何をするにおいてもコミュニケーションは大切だと普通に感じているからそのような質問をされるのだと思いますが、そもそも誰と誰の間のコミュニケーションなのか、どのような関係性を築きたいのか、今はどの程度のコミュニケ―ションが図れていて何が足りないと感じているのか等相手や状況次第で対応の仕方が変わってくるので、先ずはその辺りを聞かせてくださいと答えます。コミュニケーションがうまくとれていないと、確かに問題等が発生する傾向は高くなります。ただ、最終的に相手(複数の場合もある)とどのような状態(良い関係)になっていたいのか、そうあることでどんな良いことがあるのか等の到達点を明確にしなければ、現時点の状況とのギャップがどの程度あるのかも分かりませんし、乗り越えるべき課題(ふさわしいコミュニケーションのとりかた)も見えてきません。つまりは、何のための関係性の構築なのかを明確にしなければ、漠然としたコミュニケーションの取り方しかできないと考えます。このことはコミュニケーションに限ったことではありません。問題、いわば現在困っている状況から抜け出したい、だからその方法(HOW)を一生懸命に模索する。そしていろいろと試してみる。だけどその問題はいっこうに解決しない。そんな経験は誰もがお持ちかと思います。その理由は目指すべき到達点(WHAT)をとことん追求していないからなのだと考えます。
これは、個人的な思いかもしれませんが、昭和から平成、そして令和へと時代が移る中で、人々は個々の中でその人の目指すべき到達点や自分は何のために何をしたいのかということを考えなくなっているように感じます。誰か他人がつくった課題を乗り越えさえすれば何となく暮らしていける。誰かが引いたレールの上に乗っかっていれさえすれば、頑張って自分で自分のための“何のため”を探さなくても前に進んでいるように感じられる。まるでゲームをクリアするように、社会がそんな画一化された風潮になっているようにも思えます。おそらくその原点は教育になるのだと考えます。個々の思いや個性、こだわりを尊重するのではなく、統制された社会、管理しやすい社会、つまらなさと引き換えにした安定した社会を維持するための教育になってしまっているのではないかと危惧します。私は、個々の思いや個性、こだわりをそれぞれが尊重し、それを融合した社会にしていくことこそが、この先のあるべき姿の社会なのではないかと思います。そのためには、個々が“自分は何のために何がしたいのか”ということを考え、発見、探求できる教育(学校教育に限らない全ての教育分野)というものを改めて創造、構築していく必要があるのではと考えます。もちろん、現在当社で実施している研修等の中でも。
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